1985年のプラザ合意からおよそ30年。失われた30年の起点・日本いじめなどと言われる歴史的出来事はどのような背景から起こったのかを時系列でお伝えしてます。
果たしてプラザ合意は日本いじめなのか?については、日米の政治の力差の視点から検証しています。ご参考ください。
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Contents
プラザ合意前後の日本経済時系列・プラザ合意の影響やいかに
戦後からプラザ合意までの日本は経済的に劇的な成長を遂げ、世界の経済大国となったアメリカにとっては脅威に映っていました。
- 1971年のベトナム戦争後
- 1981年のレーガノミクス
- 1985年プラザ合意・竹下登大蔵相の全面合意
- プラザ合意後の日米為替レート
- 1986年・円高の打開策に奔走する宮沢大蔵相
- 1986年9月2日・日米半導体協定
- バブル経済の到来と崩壊
1971年のベトナム戦争後
当時のアメリカはベトナム戦争後巨額の負債を抱えており、インフレ率10%・株価の暴落といったように大変厳しい状況にありました。不況とインフレが同時に起こるスタフグレーションです。
ニクソン大統領はこの打開策の一つとしてサウジアラビアに石油売買に関する密約を申し出、これがのちに現在に至るまでの巨額なペトロダラー(オイルマネー)の仕組みを形成して行くのです。
しかしながら当時の財政赤字と貿易赤字を改善するほどの一発速攻剤とはなったわけではなく、次の大統領のレーガンが残務処理を引き受けることになりました。
1981年のレーガノミクス
1981年当時のアメリカ大統領ロナルドレーガンは財政支出を減らす意向を示しながら、以下のようなスタフグレーション改善策を試みます。
- 減税・金融緩和(市場の活性化)
- 米ドルの復活
- 軍事力強化(財政支出が削減できたにも関わらず財政赤字となる)
しかしながらドル高は是正できず、アメリカは輸入額が膨らんでドル安と貿易赤字が進行し、「双子の赤字:財政赤字と貿易赤字」をなしてしまうことになります。
1985年プラザ合意・竹下登大蔵相の全面合意
1985年、アメリカはドイツ・イギリス・日本・フランスをプラザホテルに呼びつけ、アメリカドルの協調介入を行う合意に至ります。この歴史的会合はプラザ合意と呼ばれ、実質は会合前の根回しが大きく賞味20分程度の短いミーティングだったと言われています。
出席した竹下登大蔵相は、このプラザ合意への参加が明るみに出ないよう「ゴルフに行ってくる」と言っていたそうです。
ココがポイント
竹下登大蔵相は「10‐12%の円高を飲む」といった発言をしたそうで、これ以上もこれ以外も特に細かい条件付けは行っていなかったようです。
85年のGDPは以下のとおりアメリカと日本で世界のGDPの約半数を占めていました。日本経済が絶好調の時期です。
- アメリカ:4兆3400億ドル(世界のGDPの35%)
- 日本:1兆3800億ドル(世界のGDPの12%)
アメリカは日本製品を大量に輸入しており、この時期の日本の勢いを実感せずにいられなかったのです。
ココに注目
アメリカが貿易赤字を出し続ければ、結果的に他の4ケ国どころか世界全体に影響を招きかねないという大国同士の経済協調でした。
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また、アメリカは財政赤字を減少させつつ金利の抑制を行い、一方で他の4ケ国は金融緩和を行って経済の拡張を行うよう求められました。今からすると信じがたいような経済協調です。
プラザ合意後の日米為替レート
プラザ合意が行われた1985年9月21日直前の為替相場は1ドル240円、その合意後の翌日には1ドル200円、1年内に当初から30%の円高が進み、3年後には120円になっています。
為替が1年内に30%変化し円安が進んでいるのは、輸出が絶好調だった日本にとって突如価格を30%値上げさせられたことを意味します。3割値上った商品に違和感を持たない人はいません。日本の輸出産業はこうして突然競争力を失うわけです。
ココがポイント
わずかな期間でこれほどまでに激変し、結果的に輸出で絶好調だった日本企業は円高により出荷が減り、日本経済は円高不況へと突入していきます。
1986年・円高の打開策に奔走する宮沢大蔵相
当初、竹下氏とともに中曽根総理の後任を争っていた宮沢喜一氏はプラザ合意に猛批判、「竹下さん、自分のやったことがどんなことかわかっているのですか?!」と詰めたと言われています。
宮沢喜一氏はのちに大蔵相となり火中の栗となって円高是正のために立ちまわりました。大蔵相となった直後からアメリカの財務長官ベイカー氏との対談を取り付けようとし、結果円高の是正について合意がなされたのが「宮沢ベイカー共同宣言」と言われています。
宮沢喜一大蔵相の言動は「円高が長きにわたる日本の貿易収支にかかわる」と理解した上、と考えられているようです。この意味でもしかしたら竹下氏より宮沢氏のほうが先を見通せていたかもしれません。
1986年9月2日・日米半導体協定
それまで日本の半導体シェアは7割、NEC・日立・東芝・富士通・松下・三菱電機といった日本企業が上位10社を独占していました。
プラザ合意のあと、日本とアメリカは半導体に関する協定をおこない、「日本の半導体シェア率を降下させる内容」で合意したと言います。
ココがポイント
時間が経過し96年にこの協定は廃止されました。
2022年ではトップ10に日本企業は入っていませんし、NECや東芝の半導体については米国マイクロンに吸収されています。
1986年代、誰も現代の半導体の需要を予見できていなかったでしょう。結局日本は需要高き高収益ビジネスに当時ピンポイントなメスを入れられ、結局当時のような力強さを発揮できずにいます。
バブル経済の到来と崩壊
さて、プラザ合意から始まった急激な円高とドル安は次のような影響があり、日本経済の破滅の道へ足を踏み入れていきました。
バブル崩壊に至るまでの流れ
- 1985年:円安ドル高・米国の対日本貿易赤字の是正としてプラザ合意がなされる
- 大量にドル売り日本円買いが起こった結果、合意前1ドル240円のレートが合意翌日に200円までに進行
- 急激な円高により輸出産業がダメージを受ける
- 円高不況に陥る
- 金融緩和により借り入れを促し、景気の刺激を狙う
- 借り入れが増え金余りとなった末、その行く先として日本株や不動産へと資本が大量に流れる
- 1988-89年:東証株価は24ケ月連続で上がり続ける
- 1992年:【バブル崩壊】土地化が下落、売却しても返済ができないパターンが急増、金融機関は不良債権の回収ができなくなる
- 金融機関が融資をしぶるようになり、業績が悪化した国内企業は倒産が増加、株価下落。
- 失われた30年が綿々と続く
失われた30年は、日本企業の努力不足だなど片づけられるでしょうか?
日本企業は、相当まずい舵取りをした日本政府の巻沿いになっただけ。それほど当時に起こった急激な環境の変化は不可効力でした。
プラザ合意の考察と検証・果たして日本いじめで終わるだろうか?
プラザ合意から失われた30年が始まり、長らくの間日本は経済の低迷期に突入します。失われた30年があまりに長く、プラザ合意の罪を問いたくなる人は多いと思います。
失われた30年のターニングポイントになったのは確かかもしれませんが、日本政府の相当まずい対応が原因でいまに至ったと私は実感します。
為替はゆるやかに調整しなければ混乱に陥いるのは誰もが知るところです。為替をゆるやかに調整できれば、ドルを売却して日本円を手にしても、少なくても次の経済資源をどこに分配するかを落ち着いて見つけることができます。
プラザ合意で日本がとったのは突然な大幅為替調整に全面合意する対応です。突然為替が調整され、急激な円高ドル安に陥り、大量にドルを売られた結果その資本は株や不動産といった資本に流入しやすくなり、バブル経済を惹起させる可能性が高まるのも自然な流れでした。
日本政府は金融政策で難を免れようとしましたが、制御不能な状態になって結果的にインフレとバブル経済を招いています。
日本政府の対応が相当まずかったと実感せざるを得ないのはここでした。
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さらに日本とアメリカは貿易摩擦だけではなく、安全保障上の摩擦も含んでいます。当時は軍事に対する拒否反応が強烈にあり、「防衛費は国家予算の1%内」を守るのは必須でした。国民の信頼なしに1%を超える予算など理解を得られなかったのです。
日本はアメリカの後ろ盾なしに北朝鮮中国ロシアからの攻撃を受けるようなことがあればどうなっていたか、今さら語るまでもないはずです。
持ちつ持たれつの関係性の中で、出るところは出る、というタイミングすら逃しまくってきた結果が今でしかないように思います。
プラザ合意に参加したドイツは金融政策で独立姿勢を取った結果経済破綻に至っていない
プラザ合意にともに参加していたドイツは日本のような経済的混乱に陥りませんでした。
ココがポイント
ドイツは自国通貨マルクと消費者物価と国内生産の安定に重きを置く姿勢を貫いて完全服従しなかった結果、為替変動が起ころうと資本の移動が起ころうと、経済を破綻させるまでには行きませんでした。
日本政府はドイツのように独立した金融政策を取る余地はなかったのでしょうか。協調の姿勢を見せながら独立した金融政策の舵を離す必要はなかったと思うわけです。
プラザ合意は日米の力の差が表れたに過ぎない
現代ではアメリカと中国が利害関係をめぐり対立が続いていますね。
中国の新華社はそのメディアで、この当時の日本経済に対し一定の評価をしながらも、日本政府に対しては不適切な対応をして国を混乱に陥れたと表現しています。
ベトナム戦争後崖っぷちの最中にワシントンリヤド密約に漕ぎ着けて現在に至るまで経済大国の礎をもたらしたペトロダラーシスムしかり、「世界経済のためにアメリカドル安に合意してくれ」と先進五か国を合意させたプラザ合意しかり。。
ただただ日米間の打っている策が違い過ぎる。アメリカは猛者、日本は捕食される草食動物のよう。したたかさがまるで違う。それが形になって表れているに過ぎない。アメリカのポチに成り下がらない選択があったはずなのに喜んでポチになっただけの話。
日米の力の差があり過ぎた結果今に至っている気がしてなりません。
プラザ合意当時の総理大臣中曽根康弘氏は、風見鳥などと呼ばれていました。晩年の蝋人形のような表情が強烈な闇を思わせます。
この先2度目のプラザ合意はあり得るか
2024年円安ドル高が進行し、日経平均株価も一時は4万円をこえる高値を付けるようになりましたので、二度目のプラザ合意はあり得るのかを懸念されている方もいらっしゃるはずです。
2024年に見たような日銀による単独の為替介入なら十二分に今後もあり得るでしょうが、1985年に行われたような5か国による協調的為替介入および国際貿易是正はおそらく今後起こらないのではないでしょうか。
それほど当時の協調介入は今からすると信じがたいような内容でした。
ココに注意
日本は現在財政赤字と貿易赤字の双子の赤字、円安・インフレの苦境に立たされていると言われるものの。。そうした国からの赤字報告のデータをまともに受けていても何の足しにもならなくなっています。
お気づきの方もいらっしゃると思いますが、必死に情報を収集して今後のライフプランの見通しを立てて行かないとならない時代です。
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